なら再発見
第20回へ                  第21回 2013年3月23日掲載                  第22回へ >
吉野桜―桜源郷を次世代へ
 いよいよ吉野山(吉野町)に、桜のシーズンが近づいてきた。  吉野と桜の結びつきは古い。7世紀後半の天智天皇の時代、役小角(えんのおづぬ)が大峰山で修行中、祈りによって現れた蔵王権現を桜の木に刻んで本尊にしたのが始まり、との伝承もある。神木として手厚く保護され、平安時代ごろから苗木の寄進も盛んに行われ、国内屈指の桜の名所になった。
 古くは西行法師が庵を結び、多くの歌を残した。西行に憧れて松尾芭蕉は2度、吉野山に足を運んだ。
 「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」は本居宣長の歌。
 子宝に恵まれなかった宣長の父母は、吉野山上の水分(みくまり)神社に熱心に参拝し、ご利益があって宣長が生まれたという。宣長はお礼参りとして、桜の時期に吉野山を訪ねている。
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 吉水(よしみず)神社に本陣を構えて花見の宴を開いたのが、豊臣秀吉だ。絶頂期、安土桃山時代の文禄3(1594)年に徳川家康や前田利家、伊達政宗といった武将や、茶人、連歌師ら総勢約5千人を引き連れ、吉野山にくり出した。
 しかし、長雨が3日も続き、秀吉は「雨が止まなければ、吉野山に火をつけて下山する」と言い放つ。驚いた吉野山の僧侶らは、晴天を祈願。めでたく翌日は晴れ上がり、豪華な花見を楽しんだ。秀吉は、吉野山の神仏の霊験に恐れ入ったという。
 吉野山は大正13年、国の史跡・名勝に指定された。
 吉野山の桜は約200種類・約3万本あるといわれるが、ほとんどが上品な白い花を咲かせるシロヤマザクラだ。
 「下千本」「中千本」「上千本」「奥千本」の呼び名は、一地点から千本の桜が望めるとの意味を持つ。
 そんな吉野山の桜に異変が起きている。桜の老木化や寄生植物などにより、立ち枯れする木がここ数年急増しているという。近年の気候変動も拍車をかけている。
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桜源郷の名にふさわしい吉野山の桜=吉野町

 京都大学を中心とする吉野山サクラ調査チームがまとめた「平成20〜22年度 吉野山サクラ調査報告書」によると、ナラタケやナラタケモドキのようなキノコが繁殖し、桜の木を腐らせているという。
 調査結果に基づき、吉野山の景勝を守る吉野山保勝会や町などは、下草刈りや苗木の育成などの管理方法を見直し、桜の樹勢回復に努めている。
 吉野山を愛する人たちにも協力できることがある。
 まずはゴミを捨てないこと。ナラタケなどの木材腐朽菌は、肥えた土壌に繁殖するからだ。
 もうひとつは金銭面での支援。吉野山保勝会は、銀行振込と郵便振替により寄付を募っている。年会費が1口5千円の賛助会員も募集中だ。詳しくは会のホームページをご覧いただきたい。
 桜源郷ともいわれる吉野山の美しいシロヤマザクラを、私たちの世代で絶やしてはならない。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事  鉄田 憲男)
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