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第32回へ                  第33回 2013年6月15日掲載                  第34回へ >
暗越奈良街道 ―― 難波と大和を結ぶ古代の道
 
暗越奈良街道−難波と大和を結ぶ古代の道  暗峠(くらがりとうげ)は、奈良と大阪を結ぶ国道308号「暗越(くらがりごえ)奈良街道」の最高所(標高455メートル)、生駒山頂から南に下った鞍部(あんぶ)にある。生駒市西畑町と東大阪市東豊浦町との境にあり、信貴生駒山系の縦走コースと交わる。
 起源は古く、今から約1300年前の奈良時代、難波(なにわ)と奈良の都を最短距離で結ぶ道として設置されたことに始まる。
 古代から難波と大和を結ぶ道は、盆地の西に立ちはだかる生駒・葛城の山々を越えなければならないため、竹ノ内越や竜田越など「○○越」と呼ばれてきた。
 暗越奈良街道は生駒山を越えて最短距離で難波に通じる道として整備され、「直越(ただごえ)」とも呼ばれた。まっすぐ山道を登って峠を越える直越は、険しいが一番の近道になる。
 奈良時代には遣唐使一行や西国へ赴任する官人がこの直越を通り難波津から出立し、また鑑真和上はこの道を通って平城京に入ったともいわれる。
 「直越えのこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも」(万葉集巻6−977)は、遣唐使に随行した官人の歌で、直越から照り返す難波の海を見たときの思いを詠んだものだ。


難波と大和を結ぶ古道「暗越奈良街道」
 また江戸時代の国学者・本居宣長の「古事記伝」にも、暗峠を「この道は近いから直越という」と記されている。
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 暗峠は江戸時代には大阪から奈良・伊勢方面への往来でにぎわい,数軒の宿屋と茶屋があったが,明治中期から大正初期にかけての鉄道の開通以後、急速にさびれた。
 峠の路面には江戸時代に郡山藩が敷設した石畳が残り、「日本の道100選」にも選ばれている。
 「暗がり」の名は樹木がうっそうと茂り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」「鞍換え」がなまって「暗がり」となったという説もある。
 元禄7(1694)年9月9日、松尾芭蕉が大坂へ向かう途中、この峠を通った。このとき「菊の香にくらがり登る節句かな」という重陽の節句(9月9日)にちなんだ句が詠まれた。
 暗越奈良街道は、生駒山麓からほぼ真西にまっすぐ峠を越え、東大阪市に下る。しかし国道とは名ばかりで、急坂の上峠付近では道幅2メートル以下のところもあり「酷道(こくどう)」と呼ばれている。
 それだけに車の通行が少なく、今も古道の風情を残し、峠付近には旧跡も数多く点在する。
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 周辺を歩くと青葉がまぶしく光る。峠付近の西畑町には、以前から街道沿いに石垣積みの棚田や段々畑が耕作されており、「西畑の棚田」として知られてきた。しかし近年は農家の高齢化と後継者不足で、休耕田が増えてきたようだ。
 この素晴らしい景観を後世に残そうと約10年前から、有志が下草刈りや田畑の手入れなどのボランティア活動を続けてきた。おかげで今も美しい棚田の風景を見ることができる。有り難いことだ。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事長 小北博孝)
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