なら再発見
第33回へ                  第34回 2013年6月22日掲載                  第35回へ >
入鹿の首塚と茂古森 ――因縁を感じさせる首の行方
 
 明日香村の飛鳥寺境内を西に通り抜けると、その先に「入鹿(いるか)の首塚」との言い伝えがある五輪塔が立つ。鎌倉時代または南北朝時代の造立とされ、花崗岩(かこうがん)製。高さは149センチある。
 下から2番目の球形の水輪(すいりん)が上下逆になっているという説があり、よく見てみるとややバランスが悪い。
 皇極(こうぎょく)天皇4(645)年、打倒蘇我(そが)氏をめざして中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)が中心となり、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で入鹿の首を討(う)ち取った。おなじみの「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)である。伝承では、その切り落とされた首がこの五輪塔の地まで飛んできて、力尽きたといわれている。
 「多武峰縁起(とうのみねえんぎ)絵巻」には入鹿の殺害場面が描かれており、本当に遠くまで飛んできそうな勢いで首がはねられている。

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  「入鹿の首塚」との言い伝えがある五輪塔=明日香村
 入鹿の首塚付近は飛鳥寺の西門にあたる場所で、飛鳥時代には「槻(つき)の木の広場」が広がっていたと推定される。槻の木とはケヤキの古名。古地図を見ると、入鹿の首塚のある場所は「五輪」、その近くには「土木」と呼ばれている場所もある。「ツチノキ = ツキノキ」 なのかもしれない。
 この広場で行われた蹴鞠(けまり)の会で、中臣鎌足と中大兄皇子が初めて出会ったとされる。蹴鞠をしていた皇子が誤って飛ばした靴を鎌足が拾ったことがきっかけで、2人は急接近した。その後は、蘇我氏打倒の秘策を練るため、多武峰に登って打ち合わせをしたというエピソードも残る。
 飛鳥板蓋宮から600メートル以上離れたこの地まで人間の首が飛ぶはずもないが、乙巳の変の立役者の2人が初めて出会った場所に入鹿の首が飛んできたとは、何か因縁めいたものを感じる。
 石造美術としてみるならば、特筆すべきものではないかもしれないが、甘樫丘(あまかしのおか)や飛鳥寺をバックにすっかり周囲の風景に溶け込んでいる姿は、飛鳥になくてはならない存在といえる。

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 実は明日香村には、もう1カ所、入鹿の首が飛んできたとの伝承の残る場所がある。それが「茂古森(もうこのもり)」だ。
 石舞台古墳から冬野川に沿って東に向かうと、細川谷の奥に上(かむら)という集落がある。そこに気都和既(きつわき)神社が鎮座しており、その境内一帯が、茂古森と呼ばれている。
 この一風変わった地名は、乙巳の変で入鹿を殺害した鎌足が、入鹿の首に追われてこの森に逃げ込み「もう来ぬだろう」といったことに由来するそうだ。境内には、鎌足が腰かけたという石もある。
 飛鳥時代には、絶大な権力を掌握していた蘇我入鹿。そんな入鹿だからこそ、人々はその超人的な怨念を恐れて、このような伝承を語り継いだに違いない。やはり飛鳥は奥が深い。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 露木基勝)
茂古森にある気都和既神社=明日香村  
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