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第36回へ                  第37回 2013年7月20日掲載                  第38回へ >
久度神社 ―― 桓武天皇とともに遷座した神
 
 王寺町の大和川左岸に鎮座する久度(くど)神社。奈良時代末期に官社となった記録が残る古社だ。
 この神社は私の出身地の氏神社で、私にとって「宮さん」と言えば久度神社のことだ。久度神は、その音が示すように「オクドサン」、つまり竈(かまど)の神とされる。幼い頃よりよくお参りしていたが、ごく最近、社頭の由緒書きを読み、驚いた。久度神は平安遷都とともに平野神社(京都市北区)に遷座されていたというのだ。
 久度神社は久度神遷座後、その名を残しながらも八幡神、住吉神、春日神を祭神とし、『延喜式神名帳』(927年)の平群郡20座の中にもその名が見え、現在に至るまで地域の信仰をあつめている。
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 桓武天皇の平安京への遷都は、寺院勢力から逃れるための遷都ともいわれ、寺院は新都に遷されることなく奈良に留まった一方で、神の遷座の記録はいくつか認められる。
 桓武天皇が平素から信仰していた三神(今木皇(いまきのすめ)大神、久度大神、古開(ふるあきの)大神)を奈良から皇居の近くに遷したのが、桜で有名な平野神社だ。
 「延喜式」には、天皇の食膳を整えた竈に平野の神々を祀っていたと記されており、宮中で深く崇敬されていたことがうかがえる。
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王寺町の大和川左岸に鎮座する久度神社
 約1200年の長きにわたり元宮では久度神は不在だったが、神社と地域にその名が残り、遷座の伝承は途切れることなく伝えられてきた。
 京都に遷ってしまわれていた久度神を元宮にもう一度お祀りしたいという気運が高まり、平野神社へ久度神社氏子有志がお参りをすることが慣例化していた。
 そして、ついにその日はやってきた。昭和43年4月10日、当時の平野神社の田中邦夫宮司のお計らいにより、平野神社より久度神を勧請(かんじょう)し、合祀させていただくこととなったのだ。
 その日の様子を、久度神社の森村光延(みつのぶ)宮司は「夜、タクシーで宮司以下役員が正装し、マスクをして無言で平野にお迎えにあがり、午前0時までに久度にお連れ申し上げました」と語る。
 春日若宮おん祭での神様をお遷し、お還しする作法を思わせる光景だ。それまで三神を祀っていた本殿を四神を祀るよう造営し、翌年奉祝行事を執り行い、実に1175年ぶりに久度神をお祀りすることとなった。
 現在でも久度神社敬神講は年一度、平野神社に正式参拝している。
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桜で有名な平野神社=京都市北区
 朱塗りの美しい拝殿、神撰所、中門は、皇紀2600年記念事業で橿原神宮より撤下(てっか)された古殿を昭和17年に規模を縮小し、ここに建てた、ほかでは見られない貴重なものだ。
 古材をもらい受ける際には、全員白装束でうかがったそうだ。トラック何台分もの古材は良質の桧材でとても加工しやすく、70年あまり経った今でも目立った傷みはない。
 この大がかりな整備は神社の面目を一新し、久度神を再び迎え入れる下地となったのだろう。
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 私の父は幼いころから久度神の不在を教えられていたという。そして由緒書きを読み、驚いている私に「迎えに行ってもろたやないか。知らんかったんか」と呆れながら当時の様子を話してくれた。
 遷座の事を伝え続けてくれた先人が崇敬し、大切に守り伝えてきてくれたからこそ、現代の私たちが平安京に遷ってしまわれていた神を、再び元宮に祀っている光景を目にすることができるのだ。
 こんな驚くような歴史を身近で発見するとは、奈良はなんと奥深いのだろう。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)
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