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第57回へ                  第58回 2013年12月14日掲載                  第59回へ >
新島襄の奈良旅行 ―― 垣間見える明治初期の姿
 
 NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重の夫で、同志社英学校(同志社大学の前身)を設立した新島襄(じょう)が脚光を浴びている。彼の生涯初めての奈良旅行をたどり、明治初期の奈良を垣間みてみよう。
 彼は天保14(1843)年、江戸の神田にあった上州安中(じょうしゅうあんなか)藩江戸屋敷で生まれた。本名は七五三太(しめた)という。元治元(1864)年、函館港から密航でアメリカに渡り、ボストンで洗礼を受けた。名門アマースト大学を卒業し、アメリカ訪問中の岩倉使節団に通訳として同行した後、明治7(1874)年11月、海外伝道組織アメリカン・ボードの宣教師となって帰国した。
 翌年1月、大阪・川口の外国人居留地にあった同じ派遣宣教師のゴードン邸に仮住まいし、日本にキリスト教主義の学校を設立する運動を開始した。
 来阪中で、岩倉使節団で親交があった木戸孝允を訪ね、大阪での学校設立への尽力を依頼した。しかしキリスト教嫌いの大阪府権(ごん)知事・渡辺昇の賛同を得られず、大阪での学校設立を断念。失望して頭痛と不眠に悩む新島に、ゴードンは気晴らしに奈良、京都への旅を勧めた。


新島襄も旅行で訪れた興福寺の五重塔=奈良市

 新島は明治8年4月1日、リュックとつえと傘を持って1人旅に出た。5日間の行程を英文日記「奈良、宇治、石山、京都行ノ記」に残している。
 1日目、暗越(くらがりごえ)奈良街道で奈良をめざした。午前8時大阪・川口のゴードン邸を出発し、徒歩で「フタツ神社(玉造稲荷(いなり)神社か)」へ。そこから人力車で暗峠登り口まで移動。徒歩で峠を越え、再び人力車で午後4時に奈良へ到着した。


明治時代初期の春日大社一之鳥居(放送大学付属図書館蔵)
 人力車は明治3年、東京で発明された。翌年、東京・日本橋で営業を開始すると全国に広まり、ピークの明治29年には全国で21万台に達したという。
 奈良公園での営業は明治5年に始まり、ピーク時の大正15年に397台となったが、自転車や自動車の普及で衰退した。
 当時の奈良は、慶応4(1868)年の神仏分離令の後で、興福寺が廃寺となるなど混乱の時期だった。日記にある新島の見聞を要約すると、以下の通りになる。
 興福寺を訪れ五重塔に登り、春日大社の本社と若宮に回る。本殿に4社があることに驚いて神職に聞くと、春日神は4神だとのこと。常夜灯の数は約2400もある。参道の両側に2、3の大きな囲いがあって、その中で神鹿を飼っている。ホテル「タバコヤ(所在地不明)」に宿泊する許可を得るために「屯所(たむろじょ)(交番か)」に行く。初めて五右衛門風呂に入る…。
 当時、東大寺大仏殿と回廊を会場に第1次奈良博覧会が開かれており、法隆寺や東大寺など各社寺の宝物類など千余点に加え、286件もの正倉院宝物が初めて一般に公開された。この博覧会は4月からの80日間に17万人が訪れ、大盛況だった。
 日記に東大寺訪問について直接の記述はないが、鎌倉時代に東大寺を復興した重源(ちょうげん)上人の笠などの博覧会出展品や、大仏の寸法のメモが残っているので、訪れたのは間違いない。
 奈良出発後は木津、宇治、石山、坂本、比叡山を経て、5日目に京都・三条大橋にたどり着く。
 新島は明治8年11月、京都で同志社英学校を設立したが、京都に足を踏み入れた第一歩がこの旅行だったことになる。
 ちなみに新島八重も後に奈良を訪れている。八重が55歳の明治33年10月27日、老舗旅館対山楼(たいざんろう)に宿泊したという記録が残る。現在、対山楼の跡地には、天平倶楽部という料理屋さんが建っている。
 明治時代の奈良をしのぶのも面白い。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)


明治時代の人力車(トヨタ博物館提供)

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