なら再発見
第61回へ                  第62回 2014年1月18日掲載                  第63回へ >
大和郡山・羅城門橋からの眺め ―― 今に感じる当時の平城京
 
 大和郡山市観音寺町の佐保川に架(か)かる羅城門橋(らじょうもんばし)から平城京を一望したとき、次の建物のうち見えないのはどれか。
 @平城宮跡大極殿A東大寺大仏殿B薬師寺東西塔C唐招提寺金堂
 正解はCの「天平の甍(いらか)」といわれた唐招提寺金堂。これは大和郡山検定試験の平成23年の上級問題として出題された。
 この橋に立てば、大極殿、大仏殿、薬師寺東塔という古都・奈良の歴史的、文化的景観を眺め、奈良時代を今に感じ取ることができる。
 この羅城門橋は、平城京の正門である羅城門があった場所にある。そこから平城宮の正門である朱雀門まで見上げるような高さの築地(ついじ)の大垣(おおがき)が道路の両側に建ち、幅75メートルの巨大な朱雀大路が3800メートルにわたり、都のメーンストリートとして敷かれていた。ちょうど国際線の滑走路並みの規模だ。
 国司(こくし)(今の知事)として越中(えっちゅう)(今の富山県)に赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は、こんな歌を残している。
 「春の日に萌(は)れる柳を取り持ちて見れば都の大路し思ほゆ」(春の日に芽吹(めぶ)いた柳を手に取り持ってみると、都の大路のことが思い出される)=万葉集巻19の4142
 朱雀大路は、まさに都の象徴だったのだ。


羅城門の模型=大和郡山市のやまと郡山城ホール

 続日本紀(しょくにほんぎ)には和銅7(714)年12月、羅城門外の三橋(みつはし)に大野東人(おおのあずまひと)以下170の騎兵(きへい)が整列し、新羅(しらぎ)の朝貢使(ちょうこうし)を迎えたとあり、宝亀(ほうき)10(779)年4月、唐の使者が入京し、将軍らが騎兵200人と蝦夷(えみし)20人を率いて出迎えたとある。
 外国からの使節は羅城門をくぐり、騎兵に先導されながら朱雀大路を進み、大伽藍(だいがらん)の寺院や貴族の邸宅が整然と建ち並ぶ壮麗(そうれい)な奈良の都に驚嘆(きょうたん)したに違いない。
 さて、この橋は、木橋の来生橋(らいせいばし)だったものを、新しい県道を設置するにあたって羅城門橋として造り替えたものだ。


羅城門橋からの眺望。遠く平城宮跡朱雀門の奥に大極殿が重なる=大和郡山市
 羅城門そのものは昭和47年の発掘調査によって門の基壇(きだん)の西端部が検出され、佐保川の西側堤防の真下にあることが確認されている。また来生橋が昭和10年に改修された際、佐保川の川底から礎石(そせき)が4個発見された。羅城門の礎石は、郡山城天守閣(てんしゅかく)の東北隅の石垣にも3個使われ、現存している。豊臣秀長が築城に際して運び込んだとされる。
 当時の羅城門は7間×2間の規模の重層門と考えられ、朱雀門よりも一回り大きく立派なものだ。
 現在、佐保川左岸の奈良市域には羅城門公園が整備され、記念碑などが展示されている。一方、右岸の大和郡山市域には遺跡の説明板があるのみで訪れる人が少なく、いささか寂しい。
 7世紀中頃、旧都・藤原京の西二坊大路から真北(まきた)へ走る約20キロの「下ツ道」が造られていた。これを奈良時代の初めに拡幅したのが朱雀大路だ。
 羅城門橋から朱雀門、大極殿まで一直線に眺めると、往時(おうじ)の朱雀大路を感じることができ、平城京の大きさも体感することができる。
 平城山(ならやま)丘陵の緑深い山並みに抱かれた地に建設された平城京を思い浮かべることができる、素晴らしい眺望の景観だ。今の奈良に住む私たちには、朱雀大路の歴史にふさわしい眺めをこれからも保全していくことが求められている。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事 鈴木浩)
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