なら再発見
第62回へ                  第63回 2014年1月25日掲載                  第64回へ >
梟雄・松永久秀 ―― 意地か誇りか 信貴山城で死す
 
 「梟雄(きょうゆう)」とは、勇猛で残酷なことも平気でやる首領のこと。その代表格が松永久秀(まつながひさひで)だ。
 戦国時代の英雄といえば、織田信長の名が真っ先に挙がる。信長は主家の清洲織田氏を滅ぼし、将軍・足利義昭を追放し、比叡山を焼き討ちした。その信長をして「久秀は並の人間なら1つでも難しいことを3つもやった。主家の転覆、将軍・足利義輝暗殺、大仏殿焼き払い」といい、久秀を徳川家康に引き合わせた。
 半面、久秀は茶人という顔も持っていた。下剋上の中世、久秀は茶人垂涎(すいぜん)の名器「九十九茄子(つくもなす)」を信長に献上して面従し、機を見ては信長の宿敵・武田信玄や上杉謙信に通じた。
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 久秀が信長に最後の戦いを挑んだ終焉(しゅうえん)の地が、信貴山(しぎさん)城(生駒郡平群町)だ。JR王寺駅から北西方向に、信貴山の雌嶽(めだけ)と雄嶽(おだけ)が見える。聖徳太子が寅の年・寅の日・寅の刻に毘沙門天(びしゃもんてん)の出現を感得し、信貴山中腹に建立したのが朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)だ。中世には大伽藍(がらん)を誇ったが、久秀・信長の戦火で焼失し、豊臣秀頼によって再建された。
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 朝護孫子寺本堂に参拝し、信貴山雄嶽山頂(433メートル)にある信貴山城跡へ登った。さすが要害の城、気温は低いのに、登るうちに汗ばんでくる。尾根筋に東西550メートル、南北700メートル、天守櫓(やぐら)も構えた中世最大の山城だったという。守護の木沢長政が築いた砦(とりで)を久秀が城郭へと大改修し、北の多聞山(たもんやま)城とともに大和支配の拠点とした。
 戦国時代の大和国は、久秀の引き起こした争乱に明け暮れた。本丸跡から奈良盆地を眺めると、久秀の所業のあれこれが目に浮かぶ。


信貴山雄嶽山頂にある信貴山城跡=平群町

 長岳寺(天理市)には、久秀軍に殺傷された地侍の血の足跡がにじむ床板が、天井に張り替えられて残る。昨年、国宝指定された安倍文殊院(桜井市)の文殊菩薩と脇侍像では、文殊菩薩台座の獅子像と維摩居士(ゆいまこじ)像が失われ、補作された。 
 久秀最後の壮絶な死を思う。「平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜(ちゃがま)」を差し出せば命は助けるとの信長の申し出を蹴り、もはやこれまでと茶釜を砕き、爆死した。信長に一矢をとの梟雄の意地か、茶人の誇りか。


久秀軍に殺傷された地侍の血の足跡がにじむ床板。
天井に張り替えられた=天理市の長岳寺

 久秀が死んだ天正5(1577)年10月10日は、くしくも10年前に大仏殿が焼け落ちた日だった。春日明神の神罰と世に言われた。
 悪名高い久秀だが、奈良町の高林寺(こうりんじ)に逸話が伝わる。多聞山城築造のため、近在の寺から墓石や石塔が集められたときだ。
 藤原豊成と中将姫の供養塔を持ち去ろうとしたとき、心前(しんぜん)上人が「曳残(ひきのこ)す花や秋咲く石の竹」という句を詠んだ。
 枯れ草の石竹(唐撫子(からなでしこ))も秋が来れば花を咲かすように、荒れ果てた石塔も供養される時がきっと来るから、残して置くようにと訴えたのだ。久秀はこの句に心を打たれ、供養塔は徴発を免れた。梟雄にも中将姫を思いやる情があったことに、救われる思いがする。今、父娘の供養塔は近くの徳融寺(とくゆうじ)に残る。 
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 名器「九十九茄子」は、本能寺の変や大坂夏の陣の戦火の中、持ち主を代えて生き延び、現在は東京の静嘉堂(せいかどう)文庫美術館で保管されている。
 久秀の墓は、自らの兵火で焼失させた聖徳太子ゆかりの達磨寺(だるまじ)(王寺町)にある。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)
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