なら再発見
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生駒市高山町 ―― 茶筌の美支える無足人座の節義
 
 生駒市北部の美しい山里・高山町でわが国の茶筌(ちゃせん)のほとんどが生み出されている。茶筌は主として直径の小さな淡竹(はちく)を小刀で削って作られる。消耗品ではあるが、長い工程を経て生み出される繊細な美術品だ。
 茶湯を攪拌(かくはん)する部分を「穂」といい、竹の根元側を細かく割って、表皮の側を残すように内側を「味削り」という方法で削って作る。
 穂は外穂と内穂の二重になっている。流儀と用途によって穂の数と形はさまざまだが、外穂の数で分類する。普通は数穂(かずほ)と呼ばれる64本位のものから120本のものが使われる。
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 鎌倉時代、喫茶の習慣を広く普及させたのは臨済宗をひらき、重源の次に東大寺勧進職に就(つ)いた栄西(ようさい)。室町時代、茶葉を粉にひいて抹茶(まっちゃ)にして飲むことを始めたのは村田珠光(じゅこう)で、茶筌を考案したのが宗砌(そうぜい)と伝わる。
 宗砌が茶筌の製法をこの地の土豪(どごう)であった鷹山氏に伝え、戦国時代に鷹山氏が滅びた後、家臣団は帰農して無足人座(むそくにんざ)として結束、一子相伝(いっしそうでん)でこの技を今日まで伝えてきた。
 「無足人」とは無給の武士の身分をいう。「座」は集団を表す言葉で、無足人座はこの地の氏神である高山八幡宮の祭りを執り行う宮座(みやざ)の一つなのだ。
 江戸時代、東大寺の大仏と大仏殿の復興のための寄進を募る勧進(かんじん)に尽力した公慶上人(こうけいしょうにん)は鷹山氏の出身といわれる。


公慶上人の墓前で営まれた法要=奈良市の五劫院

 上人は宝永(ほうえい)2(1705)年旧暦7月12日に大仏殿落慶(らっけい)を見ることなく亡くなり、上人座像が東大寺勧進所公慶堂に祭られた
。  東大寺では毎月12日、公慶堂にて上人の遺徳をしのぶ法要が営まれるが、4月には無足人座の「老名(おとな)」と呼ばれる代表7名と鷹山氏の菩提寺(ぼだいじ)である東大寺別院・法楽寺の住職がこの法要に参列されて餅三升を供えられる。
 今年も狭川宗玄(さがわそうげん)長老、筒井寛昭(つついかんしょう)管長をはじめ、東大寺一山を挙げての法要が営まれ理趣経(りしゅきょう)があげられた。無足人座と法楽寺住職一行はさらに公慶上人の巨大な五輪塔が祀られる五劫院(ごこういん)に場所を移し、墓前法要を営まれた。
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小さな淡竹を小刀で削って作られた高山茶筌

 「壱座(いった)さん」と呼ばれる老名の代表を務められる歯科医師、奥田明弘さんに無足人座の活動を伺った。
 先述の法要の他に正月の東大寺管長年始、4月3日の公慶上人の両親をはじめ鷹山氏一族の眠る円楽寺跡墓地(高山竹林園内)での東大寺と法楽寺を導師とする法要。さらに5月2日の東大寺「聖武さん(祭)」でのお練り行列の僧兵役などがあり、加えて春の彼岸の高山八幡神社での無足人座だけによる御供上(ごくあ)げ神事のほか、10月第3日曜日の高山八幡神社本祭の神事も司(つかさど)られるという。
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 「公慶さん」を介しての東大寺と無足人座の結びつきの強さと、公慶没後300余年、一族の祖先に関わる法要や神事などが絶えることなく今日まで律儀に伝え続けられてきたことに驚く。
 老名の一行は「今年からは大仏殿再建の幕府側の恩人である隆光(りゅうこう)大僧正さんの佐紀町の墓にも参ります」と爽やかな笑顔で五劫院をあとにされた。いかにも武士の末裔(まつえい)らしい時流に流されない誇り高き人たちの報恩(ほうおん)の営みに心が洗われる。

(NPO法人 奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

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