なら再発見
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姫丸稲荷神社 ―― 仁賢天皇在位11年余の善政
 
 まほろばソムリエの会の「ひと味深い大和路」のガイド中に、奈良県の古墳の数をよく尋ねられる。平成23年10月版の「県民だより奈良」は約9600基と紹介している。市町村別では1位が天理市で、約1690基とある。
 天理市は数で勝っているだけでなく、崇神(すじん)天皇陵や景行(けいこう)天皇陵など、古代史ファン必見の古墳も多い。これらの陵墓は天皇が死後に眠る奥津城(おくつき)だ。
 天理市には、古代天皇が日々の政務を執った宮跡(みやあと)伝承地こそ少ないものの、石上(いそのかみ)神宮に代表される古代の山辺(やまのべ)郡石上郷の地で国を治めた2人の天皇の宮跡伝承地がある。20代安康(あんこう)天皇の石上穴穂宮(あなほのみや)と24代仁賢(にんけん)天皇の石上廣高宮(ひろたかのみや)だ。
 その伝承地を訪ね歩いた。

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 天理駅からスタートして途中数人の通行人に所在を尋ね、安康天皇宮跡の穴穂神社(天理市田町(たちょう))をやっと見つけた。
 神社というよりは、ブロック塀に囲まれた廃屋のようだ。格子戸から中をのぞくと、狭い敷地に小さな祠(ほこら)が2つ並んでいた。
 もとは布留川(ふるかわ)用水を守護する貴船社と呼ばれていたが、安康天皇の直轄地「穴穂部」の伝承地にちなんで明治初年に改称されたという。


穴穂神社(安康天皇穴穂宮伝承地)=天理市田町

 安康天皇は中国の歴史書「宋書」が記す倭の五王の「興(こう)」に比定される。家来の讒言(ざんげん)を受けて殺した叔父の妃を娶り、事情を知った連れ子の7才の眉輪王(まよわのおおきみ)に泥酔中に刺し殺された。有力豪族の葛城氏没落のきっかけとなった「眉輪王の変」だ。
 政変後、他の兄弟やいとこの有力後継者・市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺して皇位を奪ったのが安康天皇の末弟、21代雄略(ゆうりゃく)天皇だ。万葉集巻頭歌や稲荷(いなり)山鉄剣に名を残し、倭の五王「武(ぶ)」に比定され、記紀に多くの逸話がある。天皇の歴史書たる日本書紀が「はなはだ悪(あ)しくまします天皇なり」と記しているのは面白い。
 市辺押磐皇子の遺児の兄弟2人は播磨の国に逃れ住んだ。後年その身分を明かして弟の23代顕宗(けんぞう)天皇に次ぎ、故郷の地で皇位に就き石上廣高宮を営んだのが兄の仁賢天皇だ。

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 古道の面影を所々に残す「上ツ道」が西名阪道と交わる在原寺(ありわらでら)跡付近の路傍に、「正一位平尾姫丸大明神」の石碑がある。


平尾山姫丸稲荷神社の石上廣高宮伝称地碑=天理市石上町

 石上廣高宮伝承地はここより1キロ余り東方の100メートル程の小高い「平尾山」にある。169号線を横断して緩やかな坂道を上がっていくと、竹林の中に姫丸稲荷神社(天理市石上町)の朱塗りの鳥居列が眼に入った。鳥居横に「石上廣高宮伝称地」碑が建っている。
 この辺りは古代には「宮の屋敷」と呼ばれ、銅鐸も出土している。上ツ道沿いにある石上市(いそのかみいち)神社や在原寺の旧地とも伝わり、あの在原業平(ありわらのなりひら)も石上で生まれ幼名を平尾丸と名付けられたという。

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 父のかたき、雄略天皇の墓を暴き、骨を砕くことが親孝行と主張する弟を、それは後世の人々のそしりを受けることになると諭(さと)す兄。仁賢天皇は謙虚で温厚、殖産を奨め国を善く治めたが、皇子の25代武烈(ぶれつ)天皇は「諸悪(もろもろのあく)を造(し)たまふ」暴君と記される。
 古代天皇もいろいろ。個人的には、独裁的な天皇の時代ほど歴史は面白い。誰もいない境内で、しばし記紀の世界へタイムスリップ。竹林を渡る心地良い風に仁賢天皇在位11年余の善政を思う。

(NPO法人 奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)

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