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(1)史跡東山道武蔵路跡(市立歴史公園) 国分寺市西元町2丁目
道路幅を示す側溝の部分に色違いの舗装を施している。
武蔵野段丘の南端部付近、約100m南方(写真奥方向)が国分寺崖線。
この幹線道は東山道から上野・下野国境付近で分岐し南下して
多麻(武蔵国府)に至る枝道である。 [←図クリックして拡大] |
(2)薬師堂
木造薬師如来坐像(重文、平安時代末〜鎌倉時代初期)は
毎年10月10日に開帳される。現国分寺所蔵。
北方建物跡
薬師堂と仁王門の間にある遺跡。
国分寺(僧寺)伽藍の中心線上にある。 |
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(3)現 国分寺 楼門と本堂
楼門(江戸時代)は旗本米津出羽守菩提寺のものを
東久留米市(東京都)から明治28年に移築した。
現国分寺の宗派は真言宗豊山派。
元弘3(1333)年に分陪河原の合戦で国分寺は堂塔伽藍一時に焼亡
した。建武元(1334)年、新田義貞より寄進があり、翌年には六丈余の
堂宇が完成したとされる。その薬師堂は、約430年後の宝暦年間
(1751〜1763)現在の丘陵上に建て替えられ、この薬師如来を中心に
除々に形態を整えて今日に至っている。 |
万葉植物園
現国分寺の境内には万葉歌に詠まれた植物が植えられ
その歌と共に名前が書かれた札が立っている。
(4)お鷹の道
ホタルも生息するというきれいな水の用水沿いの遊歩道
江戸時代の鷹狩りの時に使った道ということで呼ばれている |
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(5)おたかの道湧水園・武蔵国分寺跡資料館
入口は長屋門(国登録有形文化財)になっている。
旧本多家(国分寺村の名主)住宅長屋門。弘化5(1848)年建築。
桁行15m、梁間4.5mの木造2階建、東西棟の寄棟造鉄板葺。
中央を門口とし、東側に座敷、西側に物置を配する。
湧水源観察ポイント
国分寺崖線(通称「ハケ」)下の湧水地点の1つ |
武蔵国分寺跡資料館は大き目の2階建住宅のようなたたずまい。
国分寺の復元模型や出土瓦などの資料が展示されている。
銅造観世音菩薩立像――国分寺西方の東山道武蔵路と重なる道路
遺構より出土。高さ28.4cm。火災に遭い右手指・左肘先、台座が欠失。
(写真の台座は後補)現在関東地方で最も古い白鳳仏。 |
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(6)史跡の駅・おたカフェ 国分寺市西元町1丁目
休憩所・案内所の役割、湧水園入場券および
図書・名産品の販売、カフェの機能がある。
全国に約1,700ヵ所ある「まちの駅」の1つ。(まちの駅連絡協議会
(特定非営利活動法人地域交流センター内)に設置申請をし、
認定審査を経て、同協議会への入会が認められることが必要) |
(7)武蔵国分僧寺跡 左:講堂跡/右:金堂跡
伽藍配置は中門から延びる回廊の中に金堂と講堂が南北に並び、
その東西に経蔵・鐘楼が、さらに左右に西僧坊・東僧坊が回廊内に
配置された。塔は回廊の外に置かれる伽藍配置であった。 |
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国分寺伽藍の旧跡
二王門の旧跡(寺前半町あまりを隔てて、南の方の畑のうちに、
その礎石を存せり)。
層塔旧跡(国分寺の少し東南、半丁あまりを隔ててあり。草樹繁茂する
ところの少しの岡なり。方九尺ばかり六角に礎を居ゑたり。往古、その
塔の中真を収めたるものなりとて、うちに径三尺ばかり石にて畳みたる
空穴ありて、内に水をたたえたり)。
[江戸名所図会 巻の三、←図クリックして拡大]
←←七重塔復元想像図(高さ60m) |
(8)国分寺七重塔跡 左:東側塔1跡/右:西側塔2跡
天平十二(740)年国ごとに法華経10部を写し、七重塔を建てさせる。
天平十三(741)年国分寺建立の詔を発布。当初は塔を中心とした伽藍
であったが、8世紀末までに僧・尼寺創建による伽藍配置に移行した。
『続日本後紀』から@七重塔A承和二(835)年雷で焼失
B承和十二(845)年壬生吉志福正が再建を願い出て許可された事
が知られる。調査の結果、再建も同位置(塔1)で行われたことを確認。
塔2の版築などの基礎工事跡は9世紀中頃のもので、後世に上層が削り
取られ礎石の有無は不明で建物が建たなかった可能性も考えられる。 |
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(9)文化財資料展示室
市立第四中学校の一部に設置されている。
同校内からは鍛冶工房跡が見つかっており、瓦、土師器、須恵器、
灰釉陶器等の土器、鉄製品などを展示している。
住田正一古瓦(各地の国分寺跡出土瓦)コレクションも展示している。
入場無料、月曜日休館 |
(10)武蔵国分尼寺跡
左:金堂跡基壇/右:尼坊跡(復元礎石)
伽藍配置は僧寺とほぼ同じであると考えられるが、尼坊は回廊内の
北側に造られている。僧20人に対して尼10人を置く決まりのため
1棟(5室)で済んだことによるものか。現在土檀、礎石跡などから
位置が確認できるのは金堂と尼坊跡のみである。 |
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(11)旧鎌倉街道
国分尼寺跡の北側からすぐに国分寺崖線を切り通して登って行く
街道の左側が伝祥応寺跡/右側が塚の跡 |
伝祥応寺跡 →
近年の調査によって鎌倉時代末頃に建てられた寺跡と判明し、
本多四丁目の祥応寺の前身にあたると考えられている。
現存する大小15個の礎石の分布などから東西9m、南北18m
ほどの規模の堂があり、瓦を用いない建物だったと推定される。
塚→→
この塚(盛土遺構)は底面1辺約22m、高さ3mで、
1辺約7mの平坦な頂部を有する方錐体と復元される。
中世(14・15世紀頃)に築かれた修法壇跡で、
伝祥応寺との関係を有するものと推考される。[説明板より] |
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(12)大国魂神社
景行天皇41年に武蔵国魂として大国魂神を祀ったという縁起を持つ
古社である。その後国司の国内神社巡拝の便宜を図るため武蔵国内の
大社6社(小野、小河、氷川、秩父、金佐奈、杉山)をここに勧請祭祀し、
武蔵総社または六所宮と称した。
現在の境内地は武蔵国府の国衙跡西半部にあたる。 |
(13)国史跡 武蔵国府跡 ―国衙地区― 府中市宮町2丁目 国府は奈良時代から平安時代の中頃にかけて武蔵国を治めた
役所の所在地で、国衙はその中枢の役所群が置かれていた
地区(おおよそ東西200m、南北300m)である。 |
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(14)深大寺 山門/旧庫裡(保存棟) 調布市深大寺元町5丁目
山門は山内で最も古い建物で、元禄8(1695)年の普請である。薬医門
という形式で、屋根は切妻の茅葺き、構造材にはケヤキが使われている。
旧庫裡は慶応三年に再建された茅葺きの台所棟で現在は使用されて
いない。同時に建てられた北側の茅葺き居室棟は昭和49年に客殿建設
のために取り壊された。 |
本堂 / 大師堂
本堂は大正8年に再建された10間×8間の入母屋造り桟瓦葺き建物。
本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)である。
大師堂は慶応三年に再建された3間×4間の建物に
平成元年まで数回の改造・増築が行われている。
本尊は慈恵(元三)大師像で、高さ2mに近い大像である。
慈恵大師良源(913〜985)は延暦寺第18代座主で、
悪魔調伏の力を持つと信じられて古くより厄除の信仰を集めている。 |
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釈迦堂
昭和51年に白鳳仏を安置する堂宇として鉄筋コンクリート造りで
建設され、方形造り、銅板葺きである。
釈迦如来倚像(重文)は全高83.9cmの金銅仏で、明治42年に
大師堂の壇下から発見された。天保年間などの記録にもそれらしい
記載があるが、7世紀末と考えられる制作時からの由来は不明である。
拝観は無料で、内部には重文の梵鐘も安置されている。
天気の良い日曜日で多くの参詣者が訪れていた。
名物の深大寺そばで一杯、で締めくくり。
[←『江戸名所図会』深大寺蕎麦 味はひもっとも佳なり] |
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