なら再発見
第18回へ                  第19回 2013年3月9日掲載                  第20回へ >
田原本・補厳寺 ―― 世阿弥の足跡たどる
 今年は能楽を大成した観阿弥の生誕680年、息子の世阿弥の生誕650年の記念すべき年とされる。
 能楽については、能面をつけて舞う日本古来の伝統芸能であることは知っていても、よく分からない。そう思っている人も多いだろう。
 能楽は現存している世界最古の舞台芸術で、発祥は大和の地とされる。
 川西町周辺の「結崎(ゆうざき)座」、田原本町周辺の「円満井(えんまい)座」、桜井市周辺の「外山(とび)座」、斑鳩町周辺の「坂戸(さかと)座」は、中世から近世にかけて「大和猿楽四座」と呼ばれた。
 それが現在の「観世(かんぜ)流」、「金春(こんぱる)流」、「宝生(ほうしょう)流」、「金剛(こんごう)流」となった。

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 田原本町味間(あじま)には、江戸時代末に本堂が焼失し、山門と庫裏(くり)、鐘楼(しょうろう)が残る禅宗の曹洞(そうとう)宗「補厳寺(ふがんじ)」がある。
 昭和30年代になって、同寺が室町時代に「結崎座」の世阿弥が禅を学んだ寺であることが分かった。
      


 発見したのはいずれも能楽研究者で、神戸在住の在野の香西精(こうさいつとむ)氏(明治35年〜昭和54年)と法政大学の表章(おもてあきら)氏(昭和2年〜平成22年)。
 香西氏は、世阿弥がどこで禅的教養を身に付けたのかを研究課題としていた。宝山寺(生駒市門前町)には「ふかん寺」と世阿弥が書いた手紙が残っており、この「ふかん寺」が田原本町の補厳寺であるとする学説を発表している。
 一方、関東に住んでいた表氏は昭和34年に補厳寺を訪れた。表氏は、寺から古文書などはないとの回答を香西氏が得ていたことを知っていたが、念のため再確認すると「補厳禅寺納帳(のうちょう)」という土地台帳が4冊見つかった。
 表氏が納帳を調査した結果、世阿弥が田地を寄進していたことや、命日が8月8日と記載されていることが確認された。
 知らせを聞いた香西氏も納帳を調べ、新たに世阿弥の妻の名前も記載されているのを見つけた。世阿弥夫婦の名前が納帳に記載されていたことから、手紙に書かれた「ふかん寺」が補厳寺と証明された。
 この発見により「世阿弥参学之地」の碑が門前に建てられ、補厳禅寺納帳は田原本町指定文化財となった。

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補厳寺境内に建てられた「世阿弥参学之地」の石碑=田原本町

 世阿弥は幼少の頃から3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)にかわいがられ、能を演じるだけでなく、能楽台本に当たる謡曲(ようきょく)を手掛けている。
 「秘すれば花」という言葉で有名な「風姿花伝(ふうしかでん)」など芸術論も残した。
 しかし、6代将軍の足利義教(よしのり)の頃には不遇となり、70歳を超える高齢にもかかわらず、佐渡島に流罪となり、その後、詳細は分からない。
 補厳禅寺納帳に命日が8月8日と記録されていることから、大和に戻った可能性が高いようだ。
 罪を解かれた後、世阿弥は、若い頃に禅を学んだ補厳寺に妻とともに身を寄せ、この地で亡くなったのではないだろうか。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 大山恵功)
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