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三本松海神社 ―― 室生の鎌倉山 北条時頼の足跡残す
 
 海(かい)神社(宇陀市室生三本松)は近鉄三本松駅の南側に鎮座する。海のない奈良県にあっては不思議な名前だが、ご祭神は海神の化身・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)だ。同名の神社は隣駅の室生口大野や西吉野(五條市)にもあり、いずれも水の神を祀(まつ)っている。
 海神社の境内は、いつ参拝してもすがすがしく心が洗われる。この神社は宇陀川南岸にあり、鳥居の手前には川を背に「山神」と彫られた石が祀られている。ほとんどの神社は本殿が南か東を向いているが、ここは北北西を向いているのが珍しい。
 本殿から正面の鳥居を望むと山神、宇陀川、伊勢街道と、ふたこぶの鎌倉山が目に入る。本殿からまっすぐ北に見えるのは、安産寺(宇陀市室生三本松)だ。室生寺から移座されたともいわれる地蔵菩薩像を祀る。
 鎌倉山のことを古老に聞いた。「昔は雨ごいで登った。山の名は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)がこの地の長命寺(ちょうめいじ)に参籠(さんろう)し、山の滝に打たれて修行したという伝承に由来する」とのこと。さらに「海神社の手水(ちょうず)へは、山麓から1キロメートル以上も管を引き、水質保証つきの清水を送っている」とも。
 時頼は謡曲「鉢の木」で知られる。30歳で執権を退き、出家して最明寺(さいみょうじ)入道(にゅうどう)となった時頼が、雪の東国を旅しているとき、御家人の佐野源左衛門が貧しさのあまり秘蔵の盆栽を燃やして暖を提供してくれた。のち源左衛門は「いざ鎌倉」の緊急時、やせ馬で駆けつけたという。


宇陀市にある「海神社」

 関西の奈良県に時頼の足跡とは、驚きだ。改めて調べると、時頼は母・松下禅尼(まつしたぜんに)の影響を受けた熱心な仏教徒で、鶴岡八幡宮寺(つるがおかはちまんぐうじ)の別当には、京の朝廷と結びついた天台宗延暦寺(えんりゃくじ)を避け、真言密教系の僧を登用。また政策決定には、禅宗の中でも臨済宗(りんざいしゅう)の僧を重用している。政治においても、宗教政策が大きな比重を占めていたのだ。また彼が創建した建長寺(けんちょうじ)の本尊は禅宗では珍しい地蔵菩薩だ。


時頼が琴を弾いたとされる岩跡から望む鎌倉山
 奈良における時頼の影響を調べると、東大寺の鎮守である手向山八幡宮を現在地に建て、霊山寺(りょうせんじ)に厚く帰依(きえ)したことがそれぞれの由緒に記されている。地蔵信仰という点から見ると、東大寺にも霊山寺にも鎌倉期の地蔵菩薩像が祀られている。推測だが、安産寺の地蔵菩薩像が真言宗の室生寺から来たものとすれば、時頼の存在が何らかの形で関与しているのではなかろうか。
 長命寺には「源義経や北条時頼がここに参籠し、岩の上で琴(こと)を弾(ひ)いた」という伝承があり、かつてこの地は琴弾(ことひき)峠といったそうだ。人物埴輪(はにわ)に見られるように、琴を弾くことは武人のたしなみだった。
 琴弾峠の名はその伝承に由来するのだろうが、日本武尊(やまとたけるのみこと)の魂は白鳥となり一時大和の琴弾原(ことひきはら)にとどまった、という「日本書紀」の影響ではないかという想像も捨てがたい。峠の北東には日本武尊を祭神とする白鳥神社もある。
 ここは、古代には倭姫(やまとひめ)や大海人皇子(おおあまのみこ)、江戸時代には本居宣長(もとおりのりなが)が通ったという伊勢街道に面している。伊賀と大和の国境(くにざかい)にあるこの地には、古代から鎌倉時代に至る歴史の謎が秘められていて、汲(く)めども興味は尽きない。


(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

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