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大台ケ原 ―― 神武天皇像 古川嵩の足跡
 
 大台ケ原とは吉野熊野国立公園の一部で、標高1500メートル前後の山々と、その山々に囲まれた台地状の地帯をいい、奈良県と三重県にまたがっている。東大台周遊路(行程約9キロ、所要時間4時間)の牛石(うしいし)ケ原に、眼下の熊野灘を望んで立つ神武天皇像の建設者に迫ってみよう。

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 山頂の駐車場から歩いてすぐの大台教会を守りながら、食堂「たたら亭」を営んでおられる田垣内(たがいと)惠美子さんに、大台ケ原の歴史をおうかがいした。 
 建設を推進したのは、神道系の神習教(しんしゅうきょう)福寿大台教会を創立した古川嵩(かさむ)教長=万延元(1860)年〜昭和5(1930)年=で、像の除幕式は昭和3(1928)年。今のような道路や建設機械、車のない時代、このような高地に銅像を建設するには途方もない費用と時間、推進者の熱意がなければできるものではない。
 神武像は2メートルを越す長身で、本体重量45トン。金鵄(きんし)と弓が68キロ、太刀83キロ、製造は大阪市の大谷鋳造所だ。銅像は6分割され、三重県の尾鷲(おわせ)から30人の労務者の人力で運び上げられたという。
 古川嵩は、明治23(1890)年の夏に98日間、翌24年の12月から3か月間、単身大台ケ原に入り荒行を積んで地元の信頼を勝ち取り、同32年には大台教会を完成させた。
 彼の教えは、「人は素直に大自然に教えを乞い、大自然とともに生きる」というのが基本だ。彼は、神武天皇が大和への東征において熊野から大台ケ原を越えたとすれば、天皇こそがこの地の開山者であり、天皇が腰掛けたと伝わる「御輿石(みこしいし)」に銅像を建設するのがふさわしいと考えたのだ。


牛石ケ原の神武天皇像

 費用は山林王土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)をはじめ地元の理解者の呼びかけで集められた浄財があてられたが、運搬においては予想外の費用が掛かったようだ。古川嵩には、人をひきつけるものすごい力と魅力があったのだろう。
 大台ケ原は週のうち半分以上は霧が出るので、かつては「魔の山」と呼ばれ、昭和34(1959)年の伊勢湾台風、同36年の第二室戸台風で、トウヒの針葉樹林が倒壊する以前は昼なお暗い原生林であったという。
 魔の山であっても、昔から猟師や薬草採り等が入っており、彼らだけが知る道がある。吉野―大峯を経て熊野灘沿岸に出るには大台ケ原を通るのが最短で、かつては牛石ケ原に近い尾鷲辻から尾鷲まで山腹を通る道が通じていたという。
 今も尾鷲への道の傍には、源義経が食べた塩干し鯛の伝説に由来する「片腹鯛池(かたはらたいいけ)」があり尾鷲道の存在を伝えている。
 また現代においても、今のような車による物流が普及する以前は、熊野灘沿岸部と奥吉野地域との交易は盛んであったという。今でも店の買い出しのために麓まで6時間をかけて徒歩で下り、冬もこの地で越すという田垣内惠美子さんが語る道の話は、具体的で圧倒される。


ニホンオオカミ夫婦の版画(田垣内惠美子さん提供)。  雄(左)と雌が描かれている。

 昭和初年の神武像建設と鎌倉時代の義経逃避行、古代の神武東征伝承が海と山を結ぶ道を通じていきいきと身近に迫ってくる。

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 さらに私が心を動かされたのは、古川嵩が大台ケ原へ入ったときニホンオオカミの夫婦が彼の道案内をし、彼もオオカミ夫婦を「神の使い・大神(おおかみ)」と考えて共同生活をしたという事実だ。
 彼は雄を「剛太(ごうた)」、雌を「えい子」と名付けたという。ニホンオオカミは明治38(1905)年1月に絶滅したことになっているが、古川嵩はその時以降にオオカミ夫婦に再会しているのだ。
 大台ケ原の歴史は深い。  

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

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