なら再発見
第16回へ                  第17回 2013年2月16日掲載                  第18回へ >
御所・九品寺 ―― 千体石仏に感じる家族愛
 大和の古道を歩いていると、道端に佇(たたず)む石仏に出会うことが多い。葛城山東麓、葛城古道の猿目橋(御所市櫛羅(くじら))近くに「六地蔵石仏」がある。
 室町時代に葛城山から崩落した巨岩に、死後の世界をさまよう魂を救うという日光菩薩など6体の地蔵仏が彫られている。
 うっすらと輪郭を残しているだけだが、戦乱の世に平穏を願った人々の思いが刻まれ、今も地域の祈りの対象となっている。
 そこから葛城古道を南に進むと九品寺(くほんじ)(同市楢原)が見えてくる。聖武天皇の命により行基が建立した寺と伝わる。参道両脇の回遊式庭園「十徳園(じゅっとくえん)」は、西国三十三カ所の本尊を模した石仏を並べ、四季の花々が美しい。
 境内の行基像は、近鉄奈良駅前の行基像と、バラで有名な霊山寺(りょうせんじ)(奈良市中町)の行基像とあわせ、三つ子の像という。
      


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 本堂裏の墓地斜面には「千体石仏」がある。中世にこの地を治めた楢原氏の菩提(ぼだい)寺だ。千体石仏は、南北朝時代に南朝方についた楢原一族が、死後の極楽浄土を願い奉納したと伝わる。
 これらの石仏は、歴史の流れで埋没し、数百年間、竹林の地中深く眠っていた。ところが約200年前に裏山が開墾された際、土中から掘り出され、現在のように配置されたという。
 その数は1700〜1800体ともいわれている。前垂れを掛けられた石仏群は壮観であるが、ひとつひとつの石仏に奉納者のさまざまな思いが込められている。
 本堂横に並んだ樹木に手書きの歌碑板がつるされていた。
 「ホロホロとなく山どりの声きけば父かとも思う 母かとも思う」
 行基作と伝わる歌が目にとまった。各地に寺院を建立した行基も、深山で鳴く鳥の声にふと親のことを思い出すときがあったのだろう。
        
ずらりと並んで壮観な千体石仏=御所市の九品寺

 裏山の墓地に続く細い坂道を上がった。墓地で農作業帰りと思われる高齢女性をみかけた。木漏れ日が差し込む石仏群に向かって一心に祈る後ろ姿がみえた。
 亡き母や義母の面影が一瞬重なったのは、この場の雰囲気のせいだろうか。
 石仏群をじっくり眺めると、2体一緒に彫られた石仏も多い。夫婦像か親子像だろう。奉納者の深い家族愛を思わずにはいられない。
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 九品寺をあとにして葛城山麓を歩いた。眼下に視線を向けると、左手には大和三山や三輪山、竜王山が、右手には神武天皇が国見をしたという国見山、その後方に高取、多武峰(とうのみね)の山並みを遠望できる。随筆家の白洲正子(しらすまさこ)が紀行文「かくれ里」で称賛した大和平野のパノラマが広がる。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)
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